【18TRIP】国産ソシャゲに颯爽と現れたアロマンティックの男

『18TRIP(エイトリ)』とは、2024年5月23日にリリースしたばかりのスマートフォン用アプリゲームのことである。ジャンルは「近未来おもてなしアドベンチャー」。

18trip.jp

詳細は公式サイトを確認してもらうのが早いが、ざっくり説明すると、近未来(2055年頃と推測される)の横浜を舞台にした『旅(観光)』がモチーフのADVゲームである。近未来と言っても、我々の現実と地続きというよりはパラレルワールドのような未来の日本(ゲーム内ではJPNという国名)だと思われる。近未来SFとしてのリアリティラインは『ドラえもん』くらいを想定するといいかもしれない(なにせメインキャラにアンドロイドと人間に擬態した地球外生命体がいる)。
プレイヤーキャラクター(主人公)は寂れてしまった故郷のHAMA18区(横浜市)を観光都市として再興するため『観光区長』である20人の男性(?)たちと交流しつつ、ツアーコンダクターとして奮闘する。
ものすごく乱暴に分類すると「若いイケメン男性とプレイヤーキャラの(恋愛含む)交流を楽しむ乙女ゲーム」の流れを汲むソシャゲという括りになるだろう。ただし主人公であるプレイヤーキャラクターの性別は女性に限定されておらず、男性を選ぶこともできる(近未来なのに性別二元論かあ…とった残念さはあるが)。この手のゲームには珍しくプレイヤーキャラクターにもボイスがあり(オンオフ可能)、メインストーリーはフルボイスで楽しめる。
また、ストーリーが“売り”ということで、ゲーム開始時点から60万字を越えるボリュームのメインストーリーを無条件で読むことができる。20人の『観光区長』たちは5人ずつ4つのグループ(朝班・昼班・夕班・夜班)に分かれており、それぞれの班ごとにストーリーが展開していく。朝班から順番に読むことも、気になるキャラクターが所属する班のチャプターから読むことも可能だ。

前置きが長くなったが、タイトルに書いた通りこのゲームにはアロマンティック*1のキャラクターが登場する。メインキャラクターのひとりで、『夕班』のリーダーである北片來人(きたかた・らいと)という25歳のシスジェンダー男性である。
ゲーム中に「アロマンティック/アセクシュアル*2」といった用語は出てこないものの、この北片來人は作中で「自分は他人に恋愛感情を抱けない人間だ」と周囲にカミングアウトしており、アロマンティックとしての葛藤が(いち当事者*3から見ると笑ってしまうくらい生々しく)描かれている。
国産のソーシャルゲームにおいて、明確にアロマンティックのメインキャラクターが登場するのはおそらく初めてではないだろうか(もし他のゲームにいるならやってみたいので教えてほしい)。コンシューマーゲームでも『グノーシア*4くらいしかパッと思いつかない。
昨今ではアロマンティックとして読むことが可能なキャラクター自体はは増えているように思うが、アロマンティックとして描かれているキャラクターはまだほとんどいない。
だからこそエイトリは作り手が意図的にアロマンティックのキャラクターとして描いている(ストーリーを読むとそれがわかる)という点で画期的だ。
数年後には「ちょっと描き方が古臭いなあ」と言われるかもしれない隙や粗はまあまああるのだが、後々ひとつのターニングポイントになりそうなので、自分のために現時点での所感を含めて記録しておく。

なお、「アロマンティック/アセクシュアル表象の国産ゲームに興味がある」という動機でエイトリをプレイする場合は、プロローグ後にChapter3から読んでしまうのもありだろう。その場合、引き直し可能なチュートリアルガチャでは北片來人のSSRとSRを両方獲得しておくこともおすすめする。メインストーリーは無条件で読めるが、各キャラクターの掘り下げがある個別ストーリー『区長ノベル』を読むためにはそのキャラクターのカード育成が必須だからだ。
とはいえ、アロマンティックがどう描かれているか確かめたいのであればメインストーリーだけ読めば事足りる。

【追記】想定より大勢の方に読んで頂いているようなので、念のため今更ながら補足すると、この記事では北片來人の恋愛的/性的指向のみに絞って話している。來人の性格や趣味嗜好については極力省いており、彼のキャラクターとしての魅力(あるいは欠点)を語っているものではない。アロマンティックの人間はアロマンティックというだけでみな同じような性格というわけではなく、人それぞれ価値観も性格も趣味も異なる。わたしも当然ながら來人とは似ても似つかない性格だし、自分があの世界にいたとしても、彼とはそれほど気が合わないと思う。

ちなみに、メインストーリーではアロマンティック/アセクシュアルが受ける典型的なマイクロアグレッションの描写が多々あるため、その点は注意が必要。

以下、ストーリーのネタバレを含む所感(おそらくあまり客観的ではない上、ストーリー自体の感想ではないのであしからず)。

Chapter3 B04 「Never Love Me」

タイトルからして直球すぎて、読み返していてちょっと笑ってしまった。
状況を説明すると、直前に一緒に昼食を買いに行った主人公と來人が弁当屋の店員に「付き合いたて(の恋人同士)?」「いい雰囲気だったから(カップルだと思った)」と言われるシーンがあり(そんなこと客に言うか?)、それを受けた來人が「自分は他人に恋愛感情を持てない」とカムアウトしたうえで主人公に「自分を性愛の意味で好きにならないでほしい」と伝えている場面である。
來人のこの唐突なカミングアウトには一応理由というか前振りがあり、前日の夜に主人公が來人に「好感を持っている」と告げられたことに端を発する。主人公は「他意はないのだろうけど照れちゃうな」と來人の“好感”をややロマンティックなニュアンスとして受け取った。それを察した來人がつい先手を打ったという構図だ。
このやや唐突に見えるやり取りから、來人がこれまでにも「親しくしていた相手に素朴な親愛を伝える度に、恋愛的な感情として受け止められてしまった」経験があったのだろうと伺える。
このあたりの主人公の反応が他のキャラクターに対するものと比べて妙に過剰なことから、「アロマンティックの人間に対する周囲のマイクロアグレッション」を可視化するために意図的に描かれている部分なのだろうなと推察する。

ちなみに、主人公の性別が男女どちらでもまったく同じ流れになる(わたしは主人公を男性にしていた)。
Chapter2では「主人公の性別が男女どちらでも同じように恋愛感情を向けてくる高校生」もおり、世界観としてパンロマンティック/パンセクシュアル*5が一般的らしいことが伺えた(近未来だからね)。
Chapter3の他のキャラクターの台詞にも「今の時代にもしかして異性愛オンリーかな?」といったものがある。少なくともその程度には異性愛以外が珍しくないようなので、同性婚も法制化しているかもしれない(その割には両親が同性カップルというようなキャラクターはおらず、モブのカップルにも同性同士はいないけれど)。

そんなセクマイ差別が多少はマシになっていそうな近未来で、アロマンティックであることにそこまで思い悩むことあるか?という疑問はあるのだが、『在校生徒の人数が1万人という超超マンモス高校』が存在するくらいなので、“画期的な少子化対策”としてロマンティック・ラブ・イデオロギー*6&恋愛伴侶規範*7の強烈なプロパガンダが為されたディストピア世界なのかもしれない。
などという冗談はさておき、2024年現在のプレイヤーにとっては、まずこの「ロマンティック・ラブ・イデオロギーと恋愛伴侶規範にとことん苦しめられるアロマンティック/アセクシュアル」という描写が前提として必要なのかもしれないとは思う。この來人の葛藤を読んではじめて「自分もこの人と同じかもしれない」と気づく人もいるだろう。「まだそこから?」ともどかしく思う気持ちもないではないが、実際「まだそこから」なのだろうと感じた。

北片來人がロマンティック・ラブ・イデオロギーを内面化しているのは、仲睦まじい彼の両親から「愛とは尊いもの」と教えられて育ったからだ。この場合の『愛』とはロマンティック・ラブのことで、彼は「(恋愛・性愛の意味で)愛し合う相手と結婚し子を作ることこそ人生の喜び」という価値観を幼い頃から植え付けられていた。
しかし、他のことはそつなくこなしていた來人だが、いざ恋愛してみようとした時に「自分は他人に恋愛感情を持てないのでは?」と気づく。
大富豪の御曹司であり容姿端麗スポーツ万能の秀才という、いわばハイスペック男性の北片來人はとにかくモテた。『JPNで結婚したい男ランキング』にもランクインし(そんなランキングやめちまえ)、社交界でも理想の結婚相手として持て囃されていた。アロマンティックの人間にとっては針の筵のような環境である。
來人も最初は相手の思いに応えようと努力して、告白してきた相手と交際もしたが、恋愛の意味で相手に惹かれることはなく、関係はすぐに破綻した。せっかく心地よい距離感だった親密な相手とも、恋愛感情を向けられて、それに応えられなかったがために疎遠になることもあったという。(あるある…)
とある事情(※ストーリーの重大なネタバレなのでぼかします)から、來人は『人生の楽しみ』を追求し経験しようとしている。これまでも起業したり暴走族のリーダーになってみたりと様々なことにチャレンジしてきた。しかし「至上のもの」と教わっていた恋愛だけは享受することができなかったのだ。來人にとっては初めての挫折とも言えるだろう。

來人の『区長ノベル』4話では、その葛藤についてより深く掘り下げられている。

自分自身の性的指向について思い悩み(という描写自体が国産のソシャゲでは残念ながらとても希少だと思う)、自分は恋愛感情を持てないのだと確信した時、彼は自分自身に絶望する。その絶望のまま、他者と深く関わる(親しくなる)こと自体を諦めるようになっていった。

「他人を(恋愛・性愛の意味で)愛せない」コンプレックスと彼が抱える別の秘密が合わさって、來人の他人への接し方は人当たりの良さに反して大変そっけない。
そのそっけなさ(他人への関心のなさ)によってストーリー上トラブルが起きたりもするのだが、個人的には「親密なそぶりを見せると恋愛に誤解される危険性があるなら、そっけなくするのは処世術として当然では?」と思う。けれど、実際にそういう態度を取れば“冷血”あるいは“薄情”な人間だと評価されがちだ。
訳あって『ご当地囚人アイドル』(?)になった來人が一部のファンから向けられる恋愛感情を受け止められず、罪悪感とストレスから自暴自棄になってしまうというようなくだりもある(※かなりざっくり端折っています)。
このあたりの機微(來人の抱える諦観)は彼の恋愛的/性的指向の問題より、彼が抱える物語上の秘密に起因する部分も大きいのだが、少なくとも來人がアロマンティックでなければ「あらゆる性別の人間から向けられる恋愛感情に応えられないことの罪悪感と劣等感」「罪悪感と劣等感を回避するためには他人との深い付き合いができない」「他人に心を開けないために“薄情”と思われる」といった苦悩はなかっただろう。

物語の上では最終的に「恋愛だけが“愛”ではない」という言説に來人自身が一応納得できたことで一区切りついている。
少なくとも(現在の公開範囲においては)來人が恋愛感情を持てるようになったりはせず、彼はアロマンティックのままだ。恋愛的/性的指向を含め、理想の自分と違っていてもそれが自分なのだと來人自身が受け入れることができたように見受けられる。その上で“他人に恋愛感情を持てない”ことを理由に諦めていた他者との繋がりを諦めずに再構築しようと模索している。アロマンティックのキャラクターの描き方としては誠実なものだと感じた。

なお、メインストーリー・区長ノベルを通して、來人が他人に恋愛感情が持てないアロマンティックであることは(本人に自覚があることも含めて)はっきり描かれているが、アセクシュアルでもあるかどうかという点については、解釈が分かれるところだろう。
來人の言う「性愛の意味で好きにならないでほしい」を素直に捉えれば、彼はアロマンティックかつアセクシュアルなのだろうと推測できる。
しかし彼はあくまで「他人に恋愛感情を持てない」としか言っていない(「他人に性的な欲求が向かない」という発言はない)。來人はあくまで“恋愛”を拒絶しているのであって、“恋愛感情が一切ない性交渉”であればしたいと考える可能性もゼロではないだろう。しかし問題は、來人にとってはおそらく恋愛と性愛がセットであるという点だ。知識としては恋愛感情のないセックスがあることも彼は理解しているだろう。だがロマンティック・ラブ・イデオロギーないしは恋愛伴侶規範を強固に内面化している來人にとっては恋愛の相手とのゴールは結婚と生殖であり、逆に言えばセックスの相手と恋愛関係にないことは腑に落ちないのかもしれない。少なくともストーリーから読み取れる範囲では、來人の中では恋愛と性愛が分かちがたく結びついているのだろうと思う(恋愛的惹かれと性的惹かれを綺麗に分離できるかどうかは人によるので、彼の場合はどちらも切り離せるものではないのかもしれない)。
メインストーリーでも区長ノベルでも、來人は自分の性的指向/恋愛的指向を確かめるため、告白してくれた相手と何度か付き合ったことがあると語っている。彼にとっては「恋愛・結婚・生殖」がワンセットであると思われ、相手に合わせて性交渉をした(しようとした)可能性は高い。可能か不可能かという意味であれば、セックスは行為にすぎないので、アセクシュアルであっても可能である。例えば、嫌いな食べ物でも無理やり飲み込むことは可能だろう。だから、過去にセックスの経験あったとしてもその経験はアセクシュアルの自認を否定するものではない。來人が実際に性交渉をしたかどうかはさておき、「恋愛の相手とはセックスをするもの」という価値観を持った上で恋愛・性愛の両方を拒絶していることから、個人的には來人はアロマンティックかつアセクシュアルなのだろうと解釈している。

前述のとおり來人の中では恋愛・性愛・結婚がかなり強固に結びついている。これは來人自身がロマンティック・ラブ・イデオロギーを内面化しているためでもあるが、同時に周囲(世間)の抑圧によるものでもある。
メインストーリーでは周囲の「恋愛だけが“愛”じゃないよね」という指摘を受けて、來人も納得するのだが、個人的には「簡単に言うんじゃねえよ」という気持ちもある。
恋愛だけが“愛”ではないなどということは來人もわかってはいるだろう。その上で、恋愛という“愛”を受け取れない人間は常に“欠陥がある”というレッテルを貼られるから苦しいのだ。そのレッテルを貼るのは世間であり周囲の人間である。
たとえば恋愛感情を自分に向ける相手と結婚を前提に交際したとして「恋愛的にも性愛的にもあなたのことは好きではない。友情としては好き」と言ったら最低だと罵られるだろう。さりとて他人に“期待”をさせないように距離を置けば、それはそれで「冷たい」と言われたりもする。25歳のモテ男であれば「どうして結婚を前提とした恋人がいないのか」という圧に晒され続けて、さぞやしんどかっただろうと思う。

このあたりなど、ちょっと気持ちがわかりすぎて笑ってしまった。
個人的に歳を取るにつれて「恋愛や性愛が可能かどうかを無理に試す必要はない」と思えるようになったが、それは加齢により自分が世間的な“結婚”の対象からドロップアウトできたからだ。つまり、加齢や前科のような“瑕疵”がなければ恋愛・結婚・生殖の圧に晒され続ける世の中であるという証左でもある。

北片來人はフィクションのキャラクターであり、彼の恋愛的/性的指向について仮にはっきり明記されていたとしても、プレイヤーにはそれを無視する権利がある。「來人もいつか恋愛“できる”かもね」「まだ恋愛できる相手に出会っていないだけ」と思ったり発言するのは当然個人の自由だ。
しかし來人と同じようなアロマンティックあるいはアセクシュアル(あるいはその両方)の人間は「いつか恋愛“できる”かもね」というような善意の暴言を受け続けてきた。だからこそアロマンティックとして描かれたキャラクターに、自分が浴びてきたような言葉が浴びせられているのを目にするのはとてもつらい。
Twitterを離れているので実際に目にしたわけではないけれど、「來人さんもいつか恋愛するかもしれない」といった言動を目撃したらスマホを割りかねないな、と思いながらゲームをプレイしている。見ないからと言って“理解されなさ”が消えるわけではないのだが、直視すると非常に削られる。
それでも、ソーシャルゲームのメインキャラクターとしてアロマンティックの人物が描かれたことはとても嬉しかったし、今後もっと増えていくといいなとも思う。

ひとつだけ残念に思っているのは、アロマンティックやパンロマンティックのキャラクターは登場しても、ゲイロマンティック(同性“だけ”に恋をする人)は描かれないことだ。近未来が舞台だとしても、20人あまりの男性の中にアロマンティックの人間がいるならゲイの人間はそれより多くいるだろう(単純に割合の問題として)。同性愛者への偏見が無くなった世界という設定ならなおさらである。それなのに、ホモフォビアへの迎合にアロマンティックやパンロマンティックを使われてしまったとしたら非常に不本意だ(実際のところ、アロマンティック/アセクシュアルというのはホモフォビアの正当化に利用されやすい)。
もちろん、現時点で判明していないだけで同性愛者のキャラクターもいるのかもしれない。しかしせっかく「誰にも恋愛感情を持てない人間」を描いているのだから、「同性にのみ恋愛感情を持つ人間」もはっきりと描いてほしいと思う。

アロマンティックのキャラクターを描いてくれたことに感謝しつつ、その点については今後に期待したい。

*1:Aromantic。A(エイ)ロマンティック。他人に恋愛感情を持たない人、またはその指向。わたしは普段アロマンティックという表記はほとんど使わないのだが、今回は読みやすさを重視して使用してみた

*2:Asexual。A(エイ)セクシュアル。他人に性的欲求が向かない人、またはその指向

*3:この記事を書いている人間はアロマンティック/アセクシュアルのシスジェンダー女性

*4:宇宙船が舞台のひとり人狼ゲーム。男女以外の第三の性別“汎”が存在し、汎性には恋愛感情がないという設定。

*5:Panromantic/Pansexual。あらゆる性別の人が恋愛/性愛対象になる人、またその指向

*6:「恋愛によって結びついた男女が結婚し、出産、子育を通して愛を育みつつ、ともに年をとっていく」という、結婚における純愛至上主義を指す

*7:amatonormativity。こちらの記事参照